梶井基次郎「檸檬」

ここ数年で便利な世の中になった、と思う。

Amazon primeビデオやNetflix等で沢山の映像作品が何時でも見られるようになった。kindleや漫画配信サービス等の普及により電子書籍が身近になった。スマートフォンの普及によりブラウザでポチポチとするだけだったソーシャルゲームもグンとジャンルの幅を広げた。

もしかするとそれ以前から便利な世の中ではあったのかもしれないが、それを私が生活に取り込んだのはここ数年の話であるので、私にとってはここ数年の話である。

この数年で私は多くの娯楽作品を浪費してきたように思う。

話題作を何となく見てみる・読んでみる・遊んでみる。そしてああ楽しかった・面白かったと満足する。

勿論これは正しい娯楽の消費であり間違ってはいないが、消費者と同時に生産者(を志そうとしている者)である私にとっては勿体ないコンテンツの楽しみ方ではないかと、ふと思ったのである。

世の中は素晴らしい作品で満ち溢れている。同時にこの作品たちは私にこんな表現があるのだよ、こんな考えができるのだよと様々な事を教えてくれる指標でもある。

私はこの指標をどうにも注視してこなかったのではないだろうか。

かくして此度、作品の体験を反芻する場としてこのブログを作ったのだ。

予てよりだらだらと文章を書くことが好きだった私は、どうにもtwitterでは真面目な話をしようという気にもならないし何かのきっかけでこういった文章を書く場を設けられないかとも思っていたのでこれは絶好の機会でもあった。

また、今年の3月末日、私は1年間勤めていた会社を辞めた。所謂無職というやつである。時間を持て余し、映画やアニメを見て気ままに生活しているので、ネタは有り余っている。

而して、さあ記事を書こうと筆をとったのが丁度3日前の7月25日である。まあこれまで威勢よくブログ開設に至った崇高な理由を並び立ててみたわけだが夏コミケの原稿は今だ終わっておらず、結局のところ現実逃避なのだ。

1回目の記事には何を書こうかと悩み、現在視聴中であったアニメ「進撃の巨人」「響け!ユーフォニアム」をさっさと最後まで見て感想を書こうかと思ったのだがこの2作とも成程話題作にもなる筈で大変面白く、原稿の合間にながら見るのは勿体ないと思いまたの機会に回すことにした。

というわけで意気揚々と勇ましく筆をとった私ではあるのだが、少々気の移ろいやすいところがあり、例えば布団に入った瞬間に等、ふと不安に駆られるのである。果たして私はこのままで本当によいのであろうか、こんな風に呑気にアニメなどを見ていてよいのだろうかと。

そんな不安な気持ちの時には、寂しくなり、誰か助けてくれとでも叫ぶかのようにTwitterを眺める。だが、そこで楽しそうに友人と会話をする人達、絵や文章の作品を公開する人達、世間に物申す人達、そんな人々を見ているとより一層自分が孤独のように感じられて苦しくなる。

センチメンタルな気分になった時というのは不思議な物で、幸せな作品を読むよりも何処か鬱々とした作品を読み、より深くセンチに浸るのが心地よく感じられるのは私だけであろうか。

こんな性癖からか、ふと思い出し手に取った作品が梶井基次郎の「檸檬」であった。

大変に長い前置きの終わりである。

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本作は高校の現代文で読んだという人が多いのではないだろうか。私もその一人である。

教科書のページにして5,6ページほどではなかっただろうかの短い作品だ。

内容もかなり乱暴に言えば憂鬱な気分だった「私」が檸檬を買い、それを爆弾に見立て丸善を爆破する「妄想」ですっきりするという話だ。

これだけだと「私」という人間が如何にも単純で幼稚で馬鹿馬鹿しい話のように思えるのだが、然して読んでみると繊細で澄んでいて爽やかで、それでいて何かが背中に圧し掛かっているような何者かが首に纏わりついているような息苦しさ、薄暗さとでもいえばよいのだろうかや気怠さを感じさせる。

 

結核の主人公の見ている現実は退廃的で色にするならば灰色である。「私」以外誰も存在しない孤独で冷たい世界。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。

この不吉な塊から逃れようと「私」は妄想、作中の言葉を用いるならば「錯覚を起こす」のだ。

「私」は灰色の現実を眺めながらそこに自分で色を重ねていく。

時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団ふとんにおいのいい蚊帳かやのりのよくきいた浴衣ゆかた。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

 しかし、それは錯覚であり、言うなればカラーセロハン越しの視界のようなもので、フィルターを外してみればそこは只の現実でしかない。

檸檬を手に入れてレモンエロウ色の世界に浸っていた「私」が丸善に入るや否や、又も憂鬱が立ち込めてくる。

画本の世界で錯覚に浸ろうとするが、本の重みのせいで現実世界に戻されてしまいそれも許されない。

何度も何度も繰り返すうちに、本の山を城のように、檸檬を爆弾のように「錯覚」する。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善粉葉こっぱみじんだろう」

そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街をいろどっている京極を下って行った。

こうしてこの話は幕を閉じる。

「私」が仕掛けた爆弾はきっと世界を檸檬色に染めてしまうのだろう。「私」の見ていた灰色の世界も檸檬色に染まるはずだ。

だがそれも恐らく一時であろうと思う。

かつて憩いの場であった丸善が重苦しい場になってしまったように、「私」の病は「私」の世界を浸食し灰色に染めてしまう。

それでも「私」は色とりどりの花火に心惹かれたように、びいどろの幽かで涼しい味を見つけたように、また新しい「檸檬」を探すのだろう。

この暗く冷たい陰鬱な世界は色とりどりでひどく美しい。いつだって「私」の手で彩られ続けているのだから。